色の勉強をしていると色の視点から見た日本や世界の歴史を勉強することになります。
ここでは、現在に通じる和の文化のおおもとになった平安時代についてみていきましょう。
平安とはどのような時代だったのでしょうか?
平安時代
桓武天皇が794年に平安京に都を移し、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの約400年間を指します。
桓武天皇は、即位後、平城京からいったん長岡京に都を移したものの、災害や家臣の死が相次ぎ、改めて794年に平安京に都を移しました。桓武天皇は、律令政治を立てなおそうと、自ら精力的に政治に取り組み、親政を行います。
まず、律令改革のために、令を補う令外官を設置しました。これは、地方政治を監督する勘解由使(かげゆし)、平安京内の治安維持のための検非違使(けびいし)です。
また農民の負担軽減のために兵役を廃止しました。当時の農民は食べるのにも事欠くほど搾取されていたのです。
そのかわり郡司(地方公務員)の子弟や農民のうち、特に武芸に秀でた人材を集めて軍団を作る健児の制を始めますが、この制度は残念ながら機能せず、朝廷の軍事力を失う結果となり、平安時代後期には、軍事力をもつ武士が力持つことになります。
仏教
奈良時代に奨励された仏教ですが、政治に口出しをするほど権力を持った奈良の仏教体制を整えようと、空海・最澄を保護して、新しく真言宗・天台宗を導入しました。
また平安時代の後期に、疫病や飢饉、震災などが起こることで、「末法の世」が到来するという「末法思想」が広く信じられるようになり、世の中の荒廃とともに終末論的な思想に誰もが捉えられるようになりました。
そんな世相を背景に、貴族も庶民もその「末法の世」の到来に怯(おび)え、浄土信仰の広まりとともに貴族たちは阿弥陀如来(あみだにょらい)を本尊とする仏堂(阿弥陀堂)を建立していきます。
平安文化
菅原道真によって遣唐使が廃止(894年)されてからはより日本化が進み、国文学の勃興、書道の変遷、絵画や建築と、特に藤原家の全盛の時代は宮廷を中心とした貴族の文化が中心になり、より優雅で装飾的調和を追求するようになります。
また、平安時代後期は浄土宗の影響により「平等院鳳凰堂」が建てられました。
「平等院鳳凰堂」は平等院にある阿弥陀堂で、平安時代後期の1053年、藤原頼通により建立されます。。
「法界寺阿弥陀堂」も、平安時代に花開いた文化の1つです。法界寺阿弥陀堂は、死後の救済を願う浄土信仰が身分を問わず流行したことにより平安時代後期に建立されました。
藤原家による権力争い
藤原氏が権力を持ち出すと、
貴族の娘たちの教育がとても大切になります。それは、自らが少しでも権力の座に近づいて、高い位になるために、娘たちを天皇あるいは高官に嫁がせてその外戚関係を持つことが何よりも重要事項になり、そのために力を注ぎました。
そのため、娘たちには美しい衣装を着せ、その教養を高めることが何よりも大切なことになっていきます。
平安時代の恋愛事情
このころの風潮は、顔を直接見て恋愛するのではなく、御簾(みす)の合間からのぞく、女性の衣の配色具合がその季節にふさわしいものかどうか、つまり「季節感を上手に表現できているかどうか」が恋愛の基準で、またそれが教養であり、男性に恋心を抱かせる第一歩でした。
「出衣(いだしぎぬ)」や「打出(うちいで)」という言葉がありますが、これは女性が身にまとっている、衣裳の袖や、裾を寝殿造りの御殿の中で、あるいは、外出するときに牛車の御簾からわざと出して、男性にその色の重ねの美しさとその配色が季節にふさわしいかどうかを訴えかけるしぐさを表す言葉です。
なのでその時代の男性が恋に落ちる瞬間の言葉はきっと
「なんて美しい人なんだ」ではなく
「なんて美しい着物の色なんだ…」なんでしょうか…。
そのくらい、女性の衣裳の配色センスは恋愛を成就させるための重要なアイテムだったのです。
十二単と襲ねの色目
十二単とは、公家(くげ)女子の正装です。
朝廷出仕の女官で、部屋を与えられた高位の者の服装であるため女房装束(にょうぼうしょうぞく)とよばれました。
十二単の全体の構成は、唐衣(からぎぬ)・表着(うはぎ) ・打衣(うちぎぬ)・五衣(いつつぎぬ)・単衣(ひとえ)・長袴(ながばかま)・裳(も)からなり、髪型は大垂髪(おすべらかし)が基本です。つまり、本当に着物を12枚重ねていた訳ではなく、たくさん重ね着をしていたことから、「十二単」と言われるようになったのです。
襲ねの色目とは、この十二単の上から下までの衣裳の色の組み合わせを言うものです。重ねて着るとき、上に着るものを少しずつづ短く仕立てることによって、袖口、襟元、裾や褄などがわずかにずれて配色を楽しむことになります。
この襲の色目は、女性だけではなく、男性も季節感を表すために用いています。この配色に季節それぞれの草木花の名前をつけて楽しんだわけで、こうした色彩を表す歌なども詠むため、まさに四季だけではなく、二十四節七十二候という周期に分けてその雪月花の移り変わりを敏感に感じ、その感性を衣裳だけではなく様々な調度品にもしつらえて、毎日のように繰り広げられる宮中における節句や儀式などの晴れの舞台で、王朝の人たちは華麗な色の競演をすることになります。
かさねの色目について
襲ねの色目は「世界最古の配色便覧」ともいわれます。つまりこの時代に、世界では単色としての色の意味はありますが(ラピスラズリは聖母マリアの色など)色を組み合わせて、配色に名前を付けて色の調和を楽しむ文化は日本以外はありません。
そんな「かさねの色目」は日本が世界に誇るべき色彩(配色)文化といえるでしょう。
宮廷王朝では、激しい権力争いのツールとして、いかに美しく色を表現するかが重要で、その表現のおおもとは「日本の美しい四季」であり、現在でも茶道や、着物など様々な和の文化に「日本の伝統色」は生きています。
ちなみに同じ「かさねのいろめ」でも漢字の表記よってその意味合いが異なります。
① 重ねの色目 : 表地と裏地(上と下)の2枚の合わせ(配色)
② 襲ねの色目 : 下着から上着に至る重ね着の複数枚の合わせ(配色)
③(織り色目): 織物の縦糸と緯糸の合わせ(配色)
よく知られているのは①と②です。
① 重ねの色目
一領(衣服のひとそろえ)の衣にのぞく袷仕立てにしたときの、表と裏の色を対比させるものや、薄い素材の羅(ら)・紗(しゃ)・絽(ろ)や練っていない絹(生絹すずし)などによる、薄く透き通るようなの薄絹を重ね、光の透過で現れる微妙な色調の違いを、季節ごとに咲き競う、花の色どりや木の葉の色合いになぞらえてたのしんだもの。
裏地の色が表によく透けるため、独特の美しい色調が現れ、風合いの異なる2色の布が重なりあってできる「趣」を、平安貴族たちは楽しんでいたようです。
重ねの色目のサンプルです。
https://www.color-sample.com/colorschemes/japanese/spring/
② 襲ねの色目
当時の女性貴族が着用した着物は、布団ほどの大きさだったため、たくさん着すぎて動けなくなった貴族もいたほどだそうです。着物の下に履いていた袴も、男性より長く引きずって歩かなければならず、上流貴族の女性達は1日を通して、あまり動かず過ごしました。着物の総重量は、10kgとも言われています。
襦袢や小袖の上から長い袴を履き、単を重ね、袿(うちき)を5枚着用。着物は襟と袖、裾が少しずつずれて重なり、色合いが見えるように仕立てられています。男性貴族と同様に重ねの色目を楽しみ、色の組み合わせに名前を付けていました。
女性貴族は、色や紋に男性貴族ほど規則が厳しくなかったことから、より生地を含め趣向を凝らし、刺繍や蒔絵、金銀を施しました。
③ 襲ねの色目の構成
襲の色目の色調の構成には、匂い(におい)・薄様(うすよう)・裾濃(すそご)・村濃(むらご)・おめりなどがあります。
1.匂い(におい)…
色が映え、美しく好ましくすぐれていることを意味します。華やかさや香り、光までを含んで気高いことを表現しています。
2.薄様(うすよう)…
匂いに近い言葉で、上から順に薄くしていくことを言います。また透けるような白を上に重ねて、下の濃い色を淡く見せることにも用います。これは、薄様本来の意味が雁皮紙(がんびし)の様に薄くすいた和紙をいうところにあります。もしくは、絽や紗、羅のような薄い織物を言う場合もあります。
3.裾濃(すそご)…
同系色で襲を構成し、上は薄く、下に近づくほど、濃くするものです。(同系色のグラデーション)
4.村濃(むらご)…
同色にところどころ濃い色や薄い色を混ぜるもの。
5.おめり…
衣を合わせ仕立てにした時、裾口や裾の裏地を大手に折り返して縁のように見えるもの。
このような配色の妙が、装束だけではなく、染紙を用いる懐紙や料紙、几帳などの調度品にも使われました。
庶民と貴族との違い
衣服
食について
住居
また、庭や池があるのが一般的で、庭では音楽や踊り、池では船遊びが行われていました。
庶民
庶民の住居は、竪穴式住居や一般家屋です。地方の方々は竪穴式住居、平安京の方々は一般家屋に住んでいました。
まとめ
いかがでしたか? 平安時代は下級貴族でさえ年収2億円といわれるほど、貴族であれば黙っていても収入が入るシステムでした。
だからこそ、贅沢な生活を送ることが出来たといえるでしょう。つまり、平安時代はごく一部の大金持ちを大量の貧しい人たちが支えて成り立っていた、という時代です。
そして平安時代の貴族社会では天皇はもとより、高位に嫁がせるため、娘たちを教養高く育てることが一番の関心事でした。
そして皇后や中宮や彼女たちに使える女房達で構成される後宮は才媛たちが集う女性サロンであり、王朝文化の担い手でした。
こうした日本の自然風土を尊ぶ雅の和の文化は、細やかな表現を可能にした「かな文字」を成立させ、これまでの中国伝来の漢字を用いた男性の文化にも浸透していきます。
より感情豊かな表現を可能にした「かな文字」の成立で「源氏物語」や「枕草子」などの王朝文学により、この時代の華やかな貴族の実際の生活を垣間見ることが出来ます。